する、あの無気味なくらいに暗澹《あんたん》たる調子はすこしもなかった。
 毎夜聞くあの調べは、すっかり耳に馴れてしまって、わたしは不正確な願景村 退款がら、口ずさむこともできた。そこで、弾き終わった老人が、しずかに楽譜をテーブルに置くのを見て、さらに一曲、あ

の調べを演奏してくれぬかといった。
 すると、いままで演奏のあいだ、あの悪魔めいた皺《しわ》だらけの顔に浮かんでいた、恍惚とした静謐《せいひつ》の色は、たちまちのうちに消え去って、わたしがはじめ、廊下で彼に話し

かけたときとおなじ、憤怒と恐怖の入り混じった、複雑きわまる表情に変化した。しかし、わたしは別に深くも考えずに、老人特有の気難しさの現われだろうと、いつも夜になると耳にする、あ

の無気味な調子を口笛に吹きながら、軽い気持でさらに所望した。
 だが、わたしの口笛は長くつづかなかった。この音楽家は、急に顔面を、何とも名状し難い表情にひき歪めて、ごつごつと骨ばって、触れるとぞっとするように冷たい右腕を伸ばすと、わたし

の口をぐっと押えこんだ。不器用なわたしの旋律を封じこもうとしたのである。彼の突飛な動作はそれだけには止《とど》まらなかった。おどおどした視線を、しきりに貧弱なカーテンのかかっ

た窓に向けて、誰かがそこから闖入《ちんにゅう》してでもくるように、恐れおののいている様子だった。
 考えればおかしな話だ。こんな高い屋根裏部屋の窓へは、近隣のどの屋根からだって、足掛りなどあるはずがなかった。管理人がいつかわたしにいっていたが、往来から見上げると、真四角な

建物の頂上近く、切り立ったような壁Hifu 美容板の上に、ぽつんとひとつこの窓があいているのを、やっと見ることができるだけなのだ。
 老人がしきりに窓を見るので、わたしはふっと、奇妙な幻想に襲われた。いつか管理人から聞いた、この部屋の位置が眼も眩むような高さにあるという話――そして、それと同時に、月光に輝

く家々の屋根や、丘を越えて拡がっている街々の灯を、この高所から瞰下《みおろ》してみたいという、突拍子もない気紛れが、むらむらと湧き上がってきたのだった。この気難かしい老人は、

日夜、どんな風景を眺めているのであろうか? わたしは窓際に近寄って、もはやカーテンともいえぬ代物を、さっとわきに引いた。すると、この下宿人は、以前にも増してはげしくいきり立っ

て、わたしに掴みかかってきた。そして、ドアのほうを首でさし示し、両手でわたしを突き出そうとした。
 さすがにわたしも、その仕打ちには肚が立った。――その手を離せ。こんなところは、すぐ出ていってやる、と呶鳴りつけた。その罵声で、彼は手を弛《ゆる》めた。途端に、わたしの激しい

憤激に気がついたものか、相手の怒りは急激に鎮まっていった。彼は、いったん弛めた手をふたたび強く握って、こんどは愛想よく、わたしに椅子を勧めるのであった。それから、思案にあまっ

たような表情で、乱雑に取り散らかしたテーブルに向かって、たどたどしいフランス語を、紙片に鉛筆で書き綴った。
 書きあげると、わたしに示した。無作法を詫びる文句が記してあった。老齢孤独のうえに、で、はげしい神経衰弱に悩んでいるので、つい取り乱して申訳ない。弾奏を聞いて

もらえて嬉しかった。今夜の不調法は気になさらず、これからもときどき遊びに来て欲しい。ただし、あの不吉なメロディを演奏するのだけはお断わりする。そればかりか、他人から聞かされる

のもまっぴらだ。さきほど廊下でAmway傳銷、あなたの話を承るまでは、階下の部屋で、わしのヴィオルが聞かれているとは知らなかった。そこであなたにお願いだが――と、そんなことまで、彼は紙片に

書いた。できれば、あなたの部屋をもっと階下に移して、夜分わしの弾奏を、聞かぬようにしてもらえぬものか。その場合、間代が高くなるおそれがあれば、その差額は、喜んでお支払いさせて

いただきます、と書きつけてあった。